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第2部 世界の偉人たちの生きざま

ショパン

は、19歳の時友人4人と旅行したウィーンで偶然演奏会のチャンスが訪れ、そ

れに大成功した彼は、世界に眼が向くようになります。20歳で一人、家族と

離れプラハ、ウィーンを経てパリへと勉学の旅に出ます。そして1ヶ月も経た

ないうちに、ポーランドを支配していたロシア軍に対してワルシャワ市民が

ほうき

起したというニュースが届きます。彼と同行していた親友のティトスは帰国

して革命軍に参加することにしますが、共に戦おうとするショパンに対し一晩

かけて「君は自分の芸術に専念し、後世外国にもポーランドの名を広めること

によって、銃を手に取るよりも遙かに多くのことを祖国のために成し得るの

だ」と懸命に説得します。結局思い止まったショパンは、その時の苦悩を家族

への手紙や楽譜(革命のエチュード)に残しています。しかし革命は半年で

ちんあつ

圧され、ショパンは祖国を失ってしまいます。それでも彼の祖国愛はいささ

かも衰えず、マズルカやポロネーズといったポーランド発祥の音楽をベースと

した曲を生涯にわたって数多く作り続けました。

 パリではユダヤ人の大富豪ロスチャイルドの支援を受けながらリスト、メン

デルスゾーン、ベルリオーズなどの音楽家、画家ドラクロワ、女流作家ジョル

ジュ・サンド、詩人ハイネ等と積極的に交流し、お互いに影響しあいました。

特にリストはショパンの難曲を見事に弾きこなし、ショパンに演奏家としての

人生を諦めさせ作曲に専念させるきっかけとなりました。

 また病身のショパンも男性です。生涯独身を通しましたが、多くの女性に惚

れてはふられ、年上のサンドとは27歳から10年近く付き合い、彼女のノアン

にある別荘で夏を過ごし、その間に多くの作品を残しています。結局サンドに

もふられ、一人床に伏すことが多くなったショパンは、収入を得るためピアノ

教師の職を求めてロンドン、スコットランドを巡りますが、大作曲家の最後と

しては極めて惨めな2年間を過ごします。

 ポーランドを出てから一度も祖国の土を踏むことのなかったショパンは、そ

の遺言によって心臓だけがワルシャワに戻り、現在聖十字架教会で眠っていま