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第2部 世界の偉人たちの生きざま
松下幸之助
力)に転職してしまいます。大阪電灯時代、彼は2回命を失いかけました。1
回は通勤に使っていた蒸気船で船員が足を滑らせて転んだ時それに巻き込まれ
一緒に海に落ちてしまい、懸命に泳いだものの、あわや溺れるというところで
ボートに救い上げられました。もう1回は、自転車で部品を配達していた時に
猛スピードで突進してきた自動車に跳ね飛ばされ、自転車は大破し、自身も何
メートルか跳ね飛ばされましたが、かすり傷一つ負いませんでした。幸之助は
この2回の命拾いで「自分は強運の持ち主である」という強い自信がつき、事
業面でも積極果敢にチャレンジできるようになったといわれています。
彼は20才の時、2才年下の「むめの」と結婚します。むめのは海運業も営む
中規模農家の娘で、大阪のある旧家で女中見習中だったといいます。幸之助は
その頃は、普通の男たち並に女遊びもしていました。堺の廓では帰りの電車賃
がなくなるまで遊んでしまい、電車賃を女郎に出してもらったそうです。
大阪電灯では、幸之助は配線工として働きながら、ソケットの改良に熱中し
ます。そして1つの自信作が出来たので会社の商品の一つとして認定してもら
おうと主任に見せると、「これは課長に見せるまでもない愚作である。」と
言って相手にしてくれません。かれは更なる改良を重ねて再び提案しますが結
果は同じでした。自分のような学歴のない者の提案は受け入れられないと思い、
それならば独立して自分で作ってやろうと潔く22才で大阪電灯を辞めてしま
いました。
公職追放解除まで
幸之助はまず、農商務省特許局に実用新案の届けを出し、「松下式ソケッ
ト」として登録されるのを待って大阪市郊外に4畳半と2畳の小さな平屋を借
り、最初の工場としました。従業員は彼等夫婦と大阪電灯からの仲間2人の計
4人です。何とか目指すソケットは出来て、さあ売ろうと皆張り切って大阪市