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第2部 世界の偉人たちの生きざま
アインシュタイン
ので、教授たちの推薦が得られなかったからと言われています。親戚からの送
金もなくなり、その日の生活にも困りだした彼は、家庭教師などをして何とか
やりくりしながら「毛管現象」という優れた論文を書き、初めて学会誌に掲載
されます。それに続いて第2、第3の論文も掲載されると、彼は他の大学の有
名な物理学の教授にも、形
なりふ
振り構わず就職依頼の手紙を書きますが、それでも
就職口は見つからず、父の死も重なって失意のどん底にある時、またも救助の
手を差し伸べてくれたのは友人のグロスマンでした。
グロスマンは大学に残って学者の道を歩んでいたので、彼自身はたいした力
はありませんでしたが、彼は父に頼んでアインシュタインをスイスの首都ベル
ンにある特許局長官に紹介して貰いました。長官はアインシュタインに面接し、
実務能力にはやや問題はあるものの、電磁気学に通じていることを買って、空
きがなかったにも拘
かか
わらずアインシュタインを臨時職員に採用してくれました。
彼は2年間も就職浪人を経験したことになります。
アインシュタインは24才の時、学友だったミレーヴァ・マリッチと結婚し、
翌年長男のハンス(後にカリフォルニア大学の河川工学教授)が生まれます。
アインシュタインは2年後に特許局に正採用となり、30才まで勤めますが、特
許局での7年間が彼の生涯で最も創造的な時期だったと後に回想しています。
決して特許局の仕事を疎
おろそ
かにしたわけではありませんが、いわゆる内職と称す
る自分の研究を勤務時間中にもこっそりやっていました。そして人の足音が聞
こえると、そのメモ用紙を机の引き出しの中に隠すのでした。アインシュタイ
ンは、高校時代からの友人であるイタリア人の工学技術者ベッソーを同じ特許
局に誘い、往復の道中や休日を使って内職で温めているテーマの議論に参加し
て貰いました。そのようにして生まれたのが特殊相対性理論であり、また一般
相対性理論の端
たんしょ
緒となる等価原理です。その他にも物理学の根幹を揺るがすよ
うな論文を次々に専門誌に発表し続けたため、次第に世界的にも有名になって
いき、各地の大学から招
しょうへい
聘の声が掛かるようになりました。