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第2部 世界の偉人たちの生きざま

横山大観

随行することにします。

 一行はまずニューヨークに着き、天心の計らいで大観と春草の二人展を開き、

大胆にも日本での価格の倍の値段を付けましたが、高い値段の絵から売れてい

くという珍現象が起こり展覧会は大成功を収めます。それに味をしめてニュー

ヨークやボストン、ロンドンで何回か二人展を開催し、可成りの高収入を得ま

すが、一行は一切無駄遣いをせず、一部を美術院の借金の返済に充てます。彼

等はボストン美術館では西洋絵画の歴史を本物を見ながらじっくり研究しまし

た。その後ヨーロッパ各国を巡

めぐ

って1年半にわたる外遊を終えますが、旅行中

に大観は一人娘を病気で亡くします。大観は悲嘆に暮れながらも外遊中の経験

を基に主彩画法(いわゆる無線画法)の正当性を強く主張する大論文を春草と

連名で発表します。

 天心はボストン美術館の東洋部長の仕事を得、半年は米国で過ごすようにな

りますが、その心はあくまでも美術院の再興にあり、次々と職員が去って有名

無実となった美術院を茨城県の最北で太平洋を陸地が取り囲む風

ふうこう

光明

めいび

媚な五

いづら

に移して、その地を新たな拠点とし、大観、春草、観山とその弟子木村武山の

4人に五浦移住を熱心に奨めました。4人共直ちに承諾し、大観は両親と妹を

東京に残し、二度目の直子夫人を連れての移住となりました。そのうち天心の

指導を求めて東京からも多くの画学生が集まって来るようになり、新聞社や美

術愛好家も集

つど

うようになって、鄙

ひな

びた漁村が急に芸術の都に様変わりしたよう

になりますが、これも一時的な現象で、まず春草が眼を悪くして治療のために

東京に戻り、次いで大観が火災で家を失い2年足らずで東京に戻ってしまうと、

五浦はやがて灯

が消えたように寂

さび

れていきます。大観が後年に海洋や海浜を描

いた作品に優れた作品が多いのは、五浦での経験が役立っていると見て良いで

しょう。

 大観43才の時、親友で5つ年下の春草を、翌年には絶対の師と仰ぐ9つ年上

の天心を、更に次の年2回目の妻である直子夫人をいずれも病気で亡くすとい